わかりっこない諦めを持ちながら近づく

私がキネシオロジーを始めたのは、「全てのに納豆やバナナが合うとは限らないだろう」という疑問も大きなきっかけだったけれど、

「個々の人生なのに、お前に何がわかる?」

と、自分にも他人にも思ったからでした。

当時整体師だった私は、施術後に患者さんにアドバイスをすることも仕事のうちだと教わっていました。

二年間通った整体の学校で習ったことを、もっともらしく伝えて、役目を果たしていました。それは、患者さんにとって必要なことばかりではなかったと思います。なぜなら、患者さんの生活の一部始終を見てもいないし、その人がどんな環境でどんな気持ちで育って今があるのかも、わかりっこないからです。

それは、私に親切にアドバイスをくれる人に対しても思うことでした。見かけだけで判断されて、なんの悩みもない子だと思われがちだったので、誰も私のことなど理解する人はいないと思っていました(当時は明るそうに見えない子が羨ましかったけど、自分のギフトを受け入れ使うための学びを子どもの頃からずっとやっているのだと思います)。

だからこそ、筋肉の反応を通してその人に必要なものだけを提供するキネシオロジーは画期的だと思ったし、それを愛してバカみたいにやったからこそ、その筋肉の反応もバイアスがかかりやすいものだと認識できて、IHの「ただの筒になりなさい」という教えが本当に重要なことだと理解しています。

全て空っぽになることは出来ないけれど、それに近づく努力をする。

自分のことも他人のことも、そして地球や宇宙の全てを理解することはできないけれど、それに近づく努力をする。キネシオロジーは、分離を意図した非分離、という両側スレスレのスタンスであるべきなのだと思います。

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